三上山
 
報告者 佐坂茂美
ル ー  ト   新田辺―八幡東IC−(第二京阪・名神)−栗東IC−R8−御神神社前登山口―妙見堂跡―(表登山道)−三上山―妙光寺山―妙光磨崖仏―稲荷神社―花緑公園―栗東IC−(名神・第二京阪)−八幡東IC−新田辺
山 行 日  2010年4月14日 天候  晴れ
参 加 者 CL:佐坂     SL:村上
男性:秋月、嘉手苅、金本、西川、峯岡、山口、山下、弓仲、北川、遊佐、北村、後藤上原、石橋、柴垣
女性:秋月、上杉、加藤、河野、西上藤富、山田、吉津、堀一般
合計:26名   
 コースタイム  新田辺駅(8:00)−登山口(9:20)−妙見堂跡(9:35)−三上山(10:35)−田中山分岐点(12:10/12:40)−妙光寺山(13:00)−稲荷神社(13:40)−花緑公園(14:20/15:00)−新田辺駅(16:00)
  
 山行報告 

3月に開始予定していた関西百名山シリーズの開始は3月が2度共雨に祟られ中止の羽目になった。 この企画の最初の山は従ってこの「近江富士」と称される三上山が最初となりました。 以前、裏参道を辿りこの山に登ったことはありましたが、今回の三上山から稲荷神社に抜ける縦走は初めてで、高度はないものの振り返るとどっしりとした、正に富士のお山を思わせる山容は矢張り「百名山」だなあと納得させられました。 晴天の下、三上山から続く雌山である「妙光寺山」を通り稲荷神社へ通じる縦走路も、高度こそ無いものの若干のアップダウン、左右に見える野洲の町並みや花緑公園を眼下に納め、又若干の汗もかきながら、所々に咲いたツツジの花も安らぎを与えてくれました。

下山時刻が余りにも早かったため、縦走時に見た近江富士花緑公園に立ち寄り帰着時間調整をしたつもりでしたが それでも松井山手には4時前に到着してしまい、恒例の反省会が出来なかったのは残念でしたが、数人が新田辺駅にて小反省会を開き解散となりました。

又今回からCL、SLも手探りの状態ですが役割分担したので山行中のCLの負担も大分楽になりました。 今回SLを担当して頂いた村上さん 有難うございました。
 ヒヤリハット  
 道迷い;下山時1班と2班の間に距離ができてしまい、結果後続グループが違うルートを辿った。
 
 感想文
 三上山(近江富士)から妙光寺山へ
                                                                              石橋伸一
 

天候回復、やや肌寒いが晴れ、バス満席の26名が参加して賑やかに。向かうは琵琶湖東部の三上山(近江富士)、よく見ていて目立つ山だが意外と初めての方が多かった。国道8号線の登山口に915分到着、立派に整備された表登山道(岩場が多い)から登り始める。妙見堂跡のカスミザクラの大樹の脇を過ぎると近江富士の名のとおり急な登りが続く。途中奇岩大岩があちこちに、割岩では岩と岩の間を荷物を置いて通り抜け体の細さを競う?、さすが山友会の皆さんは無事に通れました。展望台からは近江平野の眺望が開け、野洲川を跨ぐ8号線や新幹線、琵琶湖、比叡山の勇姿が見事。山頂真下の岩場で記念撮影、鳥居が立ち、祠が祀られた山頂付近、ただ時間が早く昼食は次の妙光寺山までおあずけ。432mの山頂を越え、独立峰に近いため今度は一気に下りる。登り口からずっと我々を歓迎してくれているコバノミツバツツジ、北尾根縦走路に入ると散り始めた桜と共に見事な色彩で我々を圧倒、後方左には今下りてきた三上山がどっしりと佇む。前方右には「希望が丘文化公園」が姿を現し、かってここを利用した思い出が甦る。赤松・ソヨゴや潅木の間の緩やかな道、若干展望もあり快適なハイキングコースをいくつかの小ピークを越えて妙光寺山へ、その直前の尾根伝いの岩場でやっと昼食。妙光寺山は展望がなく直ぐ引き返す。最後の下りで磨崖仏を拝み8号線沿いの「稲荷神社」でマイクロバスに。時間の余裕から「県立近江富士花緑公園」に立ち寄り三上山を眺めての花見。総じて変化に富み、三上山の急登・急下り、北尾根縦走路の緩やかな道、天候に恵まれた展望、奇岩大岩、違う角度から見る三上山の勇姿、なかなかのものでした。

 
 三 上 山 夢 物 語
                                                                              嘉手苅一男
今から1219年前414日の鎌倉時代、源 頼朝、時代の出来事である。   
滋賀県近江地区を支配していた嘉一大名は19,000人の武将を持つ豊かな農作で潤い人脈も豊富であった。時代の出来事である人の武将を持つ豊かな農作で潤い人脈も豊富であったでも長くは続かなかった。
それは現在京都の京田辺地区、山城地区を支配する豪族秋康軍勢との戦いで負けたのである。
では詳しく説明する、夜中に秋康軍勢は田辺を出発し近江めざし着いたのは午前930分のことである軍勢はたった7,000人双方合わせて26,000人である絶対に嘉一のほうが有利と初めはその通りで進行したのだが近江三上山に追い詰めたとき奇跡は起こった今は割岩と言っているが実は秋康軍勢の中に橋石と云われる武士が突然この大岩を刀で割ろうと瞬間に雷がこの岩に落ちるのと同時に刀で岩を割ったのである。それを見た嘉一軍勢はドキモを抜きこんな大岩を刀で割るなんて考えられない。午前1030分の出来事であるそれを境にいとも簡単に戦いは逆転したのである、隊長 佐茂、副隊長 村格、も勢いズキ激しく前進した岩神に追い詰め、またもや岩かと嘉一は泣きつづけたのちの伝説によると岩神の彫刻は嘉一の仏になった彫刻であるといわれている。稲荷神社午後2時着、嘉一が祈った神社の獅子は今も生き続けてるようである。後の織田信長も近くに安土城を築きこの話を聞き感動したとある。
その証拠にその時代に天才画家と言われた北金蔵が、この戦いの一部を描き織田の安土城に残っていたと家臣はいっている。時代は流れて今は誰も知らないそれが人の運命である。